石田家の歴史 
 SINCE1919~ 

 ISHIDA Family History 


「ありがとう、おやじ・おふくろ」編集後記
 ・・・そして光春・由子の死をみつめ
  令和元年(2019年)現在

今回の100周年誌の発行にあたり、故・石田光春、由子に感謝を込めて「ありがとう」を伝えたく…。

前回88周年誌の発行後、あと2年すれば90周年を迎えるので、一緒に90年誌を作ってお祝いしようと話していましたが、その年の暮れが迫る12月2日に83歳で突然亡くなりました。
あと3年すれば五左衛門が亡くなった86才になりそれを超えて90才までは元気で生きたいと口癖のように言っていた父の姿が思い出されます。

晴れて創業100年を迎えられたのも、父と母が一所懸命に努力し、石田造船の基礎固めをしてくれたおかげです。その恩に報いるためにも、これからも努力を重ねて参ります。

     
     


栄光への航跡・船出を迎えた父に感謝をよせて 命日:平成23年12月2日

『夢と実利を一致させた船でなければ』これは生前、父がよく口にしていた言葉です。

先代から継いだ造船所のあかりを守る為、若い頃から人の何倍も働き全力で駆け抜けてきた父は、大海原を渡る1隻の船に力を尽くし、すべてを捧げました。
晩年の父は仕事が趣味だったためか年をとっても毎日・会長室で海を眺めたりカラオケで十八番の「影を慕いて」を歌ったり友人達と自慢話をしたりと毎日を楽しく笑顔で過ごしていました。
私の出張に合わせ「1人じゃさみしかろうから付いて行ってやる」と言って沖縄や北海道へも一緒に行きました。

     
     

このように気が優しく、いつも私の傍にいて笑顔のすてきな「親父」でした。10年間私と一緒に過ごし毎日親父の面倒を見て来ましたが、私に相談もなく突然旅立って行きました。

亡くなる2週間前には、ちょうど私が出張で留守にしていた時、母の妹達5人が母を見舞った後に訪ねて来て、楽しいひとときを過ごしたようです。

また、前日の12月1日はとても元気に過ごし、朝から高諸神社の従兄弟が来て会社のお祓いを済ませ、親父に「おじちゃん、寒くなるから元気でね」と会話を交わしていました。
私も仕事がピークに達していて「しわく丸」の海上試運転の日で九州・呼子から中道さんが船長として来てくれる予定でした。心にも余裕がなく、亡くなった日も朝からバタバタしていました。

親父を見ると顔色が少しおかしく、体調が悪いなと感じながら、朝の段取りを済ませてから、かかりつけの医者に事務員と一緒に連れて行きました。
医者からは、CTを撮ってみないとわからないので医師会病院へ行ってみてくれとのことで、詳しく検査してもらうために車に乗せて連れて行きました。
受付を済ませ、あとの事は事務員にまかせて仕事のために会社に戻り、検査結果が出る時間に合わせて病院へ行き、親父と一緒にCT画像を見ながら先生からの話を伺いました。
先生からは、軽い肺炎なので一週間の予定で入院して療養すれば元気になりますよと言われ、親父に「また来るから」と言ったのが最後の会話となりました。

会社に戻り、2時間もしない間に病院から「病室を巡回していたら、光春さんから返事がなく、亡くなっていました」と連絡が入りました。
びっくりして「うそじゃろ」と聞き直すと、ゆっくりでいいから病院に来て下さいと言われ、「なんでゆっくり」と思いながら、車を飛ばして駆けつけました。
父は、上半身裸にされた格好でベッドに横たわり、私に何も告げること無く一人で旅立っていました。
こんなことになるならば救急車を呼んで尾道から福山の専門医に診てもらっていたら違ってたんじゃないか、もっと生きられたんじゃなかったのかと後悔しました。

人の人生とは儚いもので、私の都合には合わせてもらえないものです。
こんなはずじゃなかったのに!!と思いながら仕事が忙しく、傍にいながら看取ってあげることができなくて申し訳ないと、やり切れない気持ちでいっぱいでした。

大好きな親父を失って、改めて親のありがたさが身に染みてわかりました。 もっともっと親父の世話をしたかった。あと10年は生きてほしかった。いくら世話をしても尽きることはありません。

仕事を通じて未来を担う子ども達に夢を与えられるよう、また地域の発展に少しでも貢献できるよう何事にも誠実に取り組んできたこれまでの日々。父の固い信念は私が引き継ぎ現在へと繋がる礎となっております。

どんなに頑張っても追いつくことの出来なかった大きな背中こそ、光が射す方向へと導く人生の羅針盤・・・風向きは強くとも、残してくれた会社をこれからも支えていく事で父への感謝を伝えて参ります。「お父ちゃん」ありがとう。

  光春・青春時代の「思い出のアルバム」  
     
     
     

父・石田光春は平成23年12月2日、83歳にて静かに生涯を閉じました。
皆様のご厚情を賜り実りある日々を送らせて頂いた父に代わり家族一同深謝申し上げます。
    平成23年12月2日



母の死をみつめ・・・                命日:平成24年7月13日

募る感謝を胸に刻み、母の面影とともに今後も励んで参ります

母は松永の高諸神社の九人娘の三女として生まれ育ちました。縁もゆかりもない因島の父の元へと見合い結婚で尾道から木造船に乗って因島・三 庄の父のもとへ嫁いだのは昭和31年でした。
知らない土地、慣れない仕事と向き合いながらの生活は大変だったと思います。それでも凛と前を見据え 地域の方との信頼関係を築き上げ縁の下の力持ちとなって家業を支え職人の世話をしながら社の礎を築き上げてくれました。
忙しい毎日ながら家族への心配りも欠かさず献身的に尽くしてくれた母。幾つになっても子どもは子どもだったのでしょう。
私が年齢を重ねてなお「お腹は空いてないか」と気に掛けていた姿に頭が下がる思いがしたものです。その気持ちに少しでも報いたいと出来る限りの恩返しをして参りました。
後年の母は旅行を満喫したり、お茶やお花を若い人に教え、その楽しみを分かち合ったりと第二の青春を謳歌することができました。


   
 

10年間の長い闘病生活でしたが、私にできる事は精一杯して参りました。
母・由子は親父が亡くなった約8ヶ月(244日)後に旅立ちました。
思い返せば母は69歳の誕生日前、言いたい言葉が途切れ途切れになり、様子がおかしいと思い医者にかかりましたが、原因が分からず、病院を転々として半年が経ちました。
どうすれば良いのか不安でいっぱいでしたが、病状は悪化するばかりで一年後には歩く事もできなくなり、あれよあれよという間に、言葉を失い、寝たきりとなり、首以外は動かなくなりました。
病名は、ピック病で食事も取れなくなり胃瘻を開けて流動食で私の事も誰だか分からなくなりました。
家の事は全て母がやっていたので、聞く事もできず、何も分からない状況になりました。
それからの母は体力も衰え、約10年間、植物人間のように生きてるだけで寝たきりの生活を続けていましたが、季節の変わり目には誤嚥性肺炎にかかり、施設と病院を行ったり来たりしていました。
亡くなる1ヶ月前の梅雨時期に入院した時、今回は帰って来れない予感がしました。
7月に入り、点滴だけで生きていた為、 日毎に衰弱し私も心の準備をしていました。仕事の合間を縫って毎日病院に顔を出し、残り少ない母との時間を過ごしました。
話したい事は、いっぱいあっても叶わず、病魔に侵されてから10年が過ぎようとしていました。
亡くなる日は、私も予感を感じとっていました。朝から病院に顔を出し、母の横に座って一人で気持ちの整理をしました。
看護婦さんにも様子を尋ね、もうダメかもしれないと思いながら会社に戻り、夕方また行くと、私を待ってくれていたのか、30分もすると息をする間隔が長くなり、最後は大きく、ゆっくり長い息を2回吸って3回目には大きく息を吸ったあと口を開けたまま旅立って行きました。
親父の死とは違い、最後まで母を看取ることができた事に安堵しました。
母の老後は決して楽しい人生ではありませんでした。突然、病に伏し、やりたい事や私に言いたかった事がたくさんあったと思いますが、それも叶わず、あれよあれよと思っている内に植物人間の状態になりました。90才近くになる母のお母さんの「キクノ」も「由子が可哀想じゃ、代われるものなら代わってやりたい」と泣いておりました。
母は元気が取り柄の人で、病気した事もなく、毎日笑って過ごし、笑顔が素敵でした。
私を生み、育ててくれた事に感謝でいっぱいです。私の良き理解者であり、最高の母でした。
母との別れを迎え私が悲しみよりも喜びを感じているのは母が自身の役目を果たし無事父のもとへ旅立てたのだと皆が満ち足りた思いに包まれているからこそ。今はただ長年の労をねぎらい逝く背を見送ります。「お母ちゃん」ありがとう。

母・キクノと父・鎮夫 由子とキクノ
由子と仁美 家の前で(由子) 由子と正憲

母・石田由子は平成24年7月13日、79歳にて静かに生涯を閉じました。
皆様のご厚情を賜り実りある日々を送らせて頂いた母に代わり家族一同深謝申し上げます。
    平成24年7月13日



両親を送り感謝を込めて「ありがとう、おやじ・おふくろ」

思い起こせば、私が入社して1年が経過した昭和60年(1985年)11月1日午前11時頃、199トン型両頭フェリーの上架作業中に船底確認のため、ダイバースーツに着替えボンベを背負って海中に入りました。
しかし、私の初歩的なミスで大量に海水を飲み込み溺れました。海中でもがき苦しみながらも、一度浮上して海面に顔をのぞかせた時、ちょうど親父と目が合い、そのまま海底へと沈んで行きました。
一瞬の記憶ですが走馬灯のように自分の人生が思い浮かび三途の川と言うか、綺麗な花がいっぱいある風景を見た感じが頭に残っております。
九死に一生を得て助けられました。その後は記憶に無く、気が付けば病院のベッドの上でした。
丸一日、昏睡状態が続き親戚一同が集まっている時に目を覚ましました。
皆の喜び、はしゃぐ声に何があったのかと驚きましたが、後から事故当時の様子を聞き、親父に助けられ一命を取り留めたと聞かされました。

それから、年を重ねるごとに私の人生は山あり谷ありで、平坦なものではありませんでした。喜び事もたくさんありましたが、地獄も味わいました。人間不信に陥った時もあります。
その度に親父から「命までは取られんから、頑張れ」と励まされ 大きな壁を乗り越えて参りました。

親父と母の運命を教訓とすれば、私が元気で頑張れる時間は、あと10年しかありません。
今迄の10年は、あっという間に過ぎ去りましたが、これからの10年間は自分のために毎日を大事な時間として生きる事を誓い、身体が元気な内に残された人生を思い通りにやり抜きたいと思いました。

今、私があるのは愛情いっぱいに育ててくれた「おやじ、おふくろ」があったからです。


「ありがとう、おやじ・おふくろ」

   
三代目社長 石田 正憲 勳五等瑞宝章を記念して 光春と由子
   
石田 光春 葬儀 平成23年12月2日 石田 由子 葬儀 平成24年7月13日
   
菩提寺 明徳寺 銘碑 平成24年9月落成
   
明徳寺 平成23年12月2日(勲位)
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