石田家の歴史 
 SINCE1919~ 

 ISHIDA Family History 













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 初代、二代の恩に感謝して!!
時世代を見据えた工場改革
 
 三代目 石 田 全 功  昭和32年 (1957)1月1日生
 平成12年(2000)~現在に至る
 
   勇気と優しさを持って、ありのままの自分で生き抜きます!!

   三代目・全 功は石田 光 春・由 子の長男として、昭和32年1月1日三庄・千守で生まれ父の敷いたレールの上を何不自由なく育ち、高校・大学・アメリカ留学へと進んだ。
アメリカでの生活は、ロスアンゼルスの郊外にあるカリフォルニア大学リバーサイド校に入学し、21歳から23歳までの2年間を過ごした。ちょうど1979年でイーグルスの「ホテル・カリフォルニア」が流行り、ダットサン「280Z」の全盛期でもあり好奇心いっぱい見て触れて青春時代を異国の地で楽しんだ。
アメリカ人に囲まれ異文化に溶け込み考え方の違いを学び様々な物を吸収して成長した。
アメリカから帰国してからは、大阪の木津川沿いにあった名村重機船渠へ入社し1年の大阪での生活の後、東京事務所へ転勤した。東京の街並を覚えるため、神田から丸の内・新橋・虎の門・赤坂を歩き廻るのが日課となり、半年で靴底がすり減った。
3年間のサラリーマン経験後、27歳になった昭和 59年に家業を継ぐため戻ってきた。
光春から経営を学び生まれ持った感性と努力により16年後の平成12年43歳で三代目社長に就任した。
さまざまな独創的なアイデアを生かし官、民のユーザーに積極的な受注活動を展開し、現在では官公庁100%の造船所として海上自衛隊・海上保安庁・国土交通省・警察庁から厚い信頼を受け新造・修繕を手掛けている。
平成4年から光春が他界する23年までの19年間、二人三脚で特徴的な造船所として生き残るために決断し、約15億円の設備投資を実施した。
設備の更新を始め、船台拡張(No.1船台1,600G/T、No.2船台749G/T)やセミドライドック方式(ドックゲート付き)船台などドックハウス・ゲストルームなどを含め、将来を見据えた工場改革を断行した。
27才で家業を継ぐため入社以来、親父とおふくろが苦労して築き上げた造船所を小さいながらも充実した「ガンダム」のような造船所に生まれ変わらせ外観を船のイメージにアレンジした造船所が誕生した。
もしあの時の決断がなければ、現在の石田造船の姿はなかったと思う。
常に新造船の企画・基本設計を自ら手掛け、物造りを通してイメージ通りの船が完成した時が一番幸せである。
15歳で木江工業高校の造船科で造船を学び、長崎造船大学へと進学し、本年で造船に係り、ちょうど48年を迎えた。
父から学んだ教えを基本に生まれ持った感性・判断力を信じ、ファミリー企業を伝承するべく事業に邁進している。
還暦を過ぎ、自分の人生を振り返ると、やりたいことは全てやったと実感しているが、さらに高い目標を立て一度しかない人生だから、残りの人生を楽しく暮らしたい。※詳細は(←クリック)をご覧ください。

好きな女性タレントは、膳場 貴子さん。
男性は、笑福亭 鶴瓶さんである。

私にとって膳場さんは、永遠のマドンナです。
 
 経歴等
 
 昭和32年1月 誕生   

 学歴
   
 昭和50年3月 木江工業高等学校 造船科 卒業(18歳)   
 昭和54年3月 長崎総合科学大学 造船工学科 卒業(工学士)(22歳)  
 昭和54年9月 カルフォルニア大学リバーサイド(U.C.R)校・語学研修コース入学(22~24歳)  
 昭和56年7月 帰国  
 
経歴
   
 昭和56年10月 名村重機船渠(株)入社(24歳)   
 昭和59年9月 名村重機船渠(株)退社(27歳)  
 昭和59年10月 石田造船工業(有)入社(27歳)  
 平成4年10月 石田造船建設(株) 代表取締役副社長就任(35歳)  
 平成12年12月 石田造船建設(株) 代表取締役社長就任(43歳)  
 平成19年7月 中国運輸局長表彰状授与
 
 平成23年4月 石田造船建設(株)から石田造船(株)に商号変更  
 平成24年7月 中国運輸局長海事表彰   
 平成27年3月 尾道市長より感謝状授与   
 平成27年7月 国土交通大臣より大臣表彰授与   
 
団体歴
   
 平成16年6月 全船安東部支部長 就任(47歳)  
 平成16年7月 因島海事振興協議会理事 就任  
 平成16年7月 社団法人中国小型船舶工業会理事 就任  
 平成16年7月 因島海事振興協議会理事 辞任
 
 平成17年4月 弓削商船高等専門学校 後援会長 就任  
 平成21年4月 尾道市立三庄小学校 PTA会長 就任  
 平成22年3月 弓削商船高等専門学校 後援会長 退任   
 平成22年3月 尾道市立三庄小学校 PTA会長 退任  
 平成27年6月 小型船舶工業会 東部支部 支部長 就任  
   
 工場前にて(会長・社長) 母校・長崎総合科学大学にて 会長・光春と(49歳)
       
1歳頃 3歳頃 アメリカ自由の女神像にて(23歳) 名村重機船渠(大阪)で働く(25歳)

    平成23年3月11日、東日本大震災により東北地方の多くの方々が亡くなられました。亡くなられた方々のご冥福を御祈り申し上げます。太平洋に面 した宮城県・福島県沿岸は津波で大きな被害を受け、多くの漁船が流出しました。ボランティアとして初めて被災地に入り、その惨状を目の当たりにし言葉を失いました。

 9月から月2回のペースで仙台を訪ね、船を失った漁師さんの話を聞いているうち、私に漁業再生のお手伝いができるのではないかと各漁協の関係者と協議を進め宮城県漁連(仙台支所)から3隻(閖上支所)から4隻(山元支所)から4隻、福島県(相馬双葉支所)から1隻、合計12隻のFRP製4.9トン型漁船を受注しました。すぐに基本設計に着手しながら図面の修正を何度となく行いました。

 年が変わり大震災から1年が経過した頃には木型も完成し7月末には1・2号船を引き渡しました。それを基本に改良を重ね、12月末までに3・4号船の引渡が終了し、平成25年春には5・6・7号船へと進み、年内に11隻の引渡しを完了しました。同型船ではありますが、漁船は扱う人と漁法により内容が変わるため大変難しいことを実感しました。
福島県の建造も改良しながら26年春までに引き渡す予定で建造しています。

●金比羅宮発行
●平成14年より毎年連載「こと比ら68」で12年目を迎えた。
●題名「東日本大震災復興支援に向けて」こと比ら68(平成25年1月1日発行)


    私は、造船所に自宅が隣接していたためか小学校までは、毎日工場内で遊び父や母に叱られながらも職人さんや祖父母に甘やかされて育ちました。
家業を継いでからは親父と二人三脚で夢を追いかけ、若さゆえに失敗や挫折も数多く経験し、地獄も味わいながら造船業界の浮き沈みの激しさを身をもって経験してきました。

私は父が大好きで、父が70歳を超えた頃から介護生活となり毎日世話をしながら親子水入らずで親父の残された人生を一緒に歩んできました。

 両親も平成23年、24年と連れ立って他界しました。私の頭の中には元気だった頃の「父の姿・母の姿」が常にあり、たくさんの思い出が詰まっています。
両親には今までに随分苦労をかけ、親不孝もしてきましたが、反対に親孝行もたくさんして参りました。私が今あるのは両親のおかげである事に感謝 し、両親からもらったたくさんの愛と思い出を大切に、家業の発展に私の命を捧げたいと思っています。

 表紙写真:
関前村向けフェリー
「第二せきぜん」
●社団法人 日本旅客船協会発行  機関誌「旅客船」
●平成9年5月200号より(1997)「ザ・モニターズ」へ毎回投稿
●題名「海と私」 

   先代から受け継がれてきた血が騒ぎ、手塩にかけて建造した船には特別の思いがあります。
進水式を迎えるたびに、建造課程の様子が 走馬燈のように蘇り、くす玉が割れ紙吹雪が舞う中を完成した船が滑り降りると涙が溢れます。何隻建造しても、この熱い気持ちは変わることはありません。

 昭和60年から進水式のたびに地元の子供達を招待し、「良い思い出」となるように工場見学や進水式見学を続けて参り、今年で30年を迎えました。今では子供達も成長し親となり、その子供が見学に訪れる状況となりました。
子供達の笑い声や目の輝きからいつもパワーをもらい明日の元気につなげています。

 また、工場見学の先駆者ともなり、修学旅行で訪れる生徒も年々増加し「もの造り」の現場を案内し「夢の実現」に向けて邁進しています。

表紙写真:
大津島
巡航向けフェリー
「フェリー新大津島」
●(有)海交新社発行  月刊「共有船」
●平成11年(1999)2月(No.344)より「船屋のひとりごと」を毎月連載
●平成21年、10年を経て連載を終える。
●題名:「船屋のひとりごと」
 



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